「Z世代」言説に反駁する

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基本的に物事に当事者性というのは付きまとうのだが、当事者以外で尾ひれ羽ひれがつくとろくでもないことになる。ここでいうのは「Z世代」という括られ方である。

聞けば、私は平成14年生まれなのだが、どうやらZ世代に該当するらしい。なんなら、そのど真ん中である。しかしこの「Z世代」という言説を用いて使われているところを見るに、中々ひどい括りであるようにも思われる。インターネットでの言論などを見る限りおおよそタイムパフォーマンス重視だとか、失敗したくないだとか、さまざまなイメージをつけているようである。

しかしこれというのはかなり大雑把かつ、誤解の多い論議であると思われる。

第一、そもそも自称ではない。あくまで他者から与えられたグルーピングである。それを自認すること自体に問題がある。

次に、定義が広すぎる。色々見てみたところ、狭い定義でも1998年~2007年生まれ、広ければ1995年~2012年生まれである。狭い定義なら17歳~26歳、広い定義なら12歳~29歳である。中学生と社会でバリバリ働いている人間まで、感受性の差というものを乗り越えてまで共通して論ずる何かがあるのか、疑問である。非常に残念なことながら、もう今の高校生にとってはSwitchが最初に触れたゲーム機で、Wiiとは何ぞやということもあるらしい。こんな昔話ができるくらいには歳の差が離れている。少なくとも日本に限った話であれば、同じ中学・高校に居るくらいまでの年齢差、つまり+2~3歳くらいまでならまだ共通して括りだすことは可能なのであろうと思われる。

その点、平成10年代前半生まれくらいまでであれば、「平成に自覚のある最後の世代」という世代であろうと思われる(これも2000~2004年くらいの狭い幅の話である)。もう一押しすれば、テレビという共通のメディアに触れていた世代でもあるといえる。もちろん今もテレビがあるわけだが、我々にとっては漸く個人のデバイス(単なる電話ではなく情報端末として)が中高辺りで普及したあたりで、それこそ小6でグループLINEなんてものを作ってるマセガキも居たりして、一応それが注意喚起されていたくらいのところである。そんな時分、まだ(特番でもなく)ゴールデンタイムのテレビを見ていたような気がする。その中にはまだ「大衆」があり、「国民的○○」があったと考える。それこそ嵐なりAKB48なんていうのはその象徴たる現象とみて差し支えないだろう。あらゆる世代に一応は膾炙するコンテンツがあった。それが平成という時代であり、その時代に自覚があったのは確かに平成10年代前半生まれくらいまでであろう。他方で、個人のデバイスで見る、島宇宙化した動画たちをみているだけであり、「共通」は幻想のかなたにあるのだろうと考える。

とやや強引であるが、「Z世代」言説の反駁として言っておきたい。