「RTしろと言われた気がする」て何?

2024年4月26日オタク考

ある日フォロワーに会って聞かれた

「たまに来る『RTしろと言われた気がする』てやつって何?」

そういえば言語化していなかったので今回はその話をしておこう。意外と自分の考えの幹となるところがある気がするので。
注意:Twitterをよく見てない方にはよくわからないと思うが、とりあえず話を聞いていただけると幸い。また、推敲し文面が変わっているかもしれないのでたまに覗きに来てください。

とりあえず検索した結果はこの通りである

とりあえず「天啓だ」ということにしてごまかしてきたが、実際突き詰めて考えてみるとそうではない部分がある気がする。

オタクということに引け目を感じる人というのは多いのかもしれない。自分の好きなものを「好きだ!」と言える空間がもっとあるべきなんだろう。その空間を僕は造りだしていきたい。このブログも究極的にはそのための表現の一環かもしれない。そういう意味では天啓というか使命感はある。もっとみんなどんどん言っていこうぜ、タブー視しないでおこうぜと思っている。

特に、性的感情に関しては(勿論現実行動に移してはいけないものは多々あるが)発露とそれを見ることを忌避する傾向があるように思われる。しかし、その感情をひた隠しにすること、禁忌としてしまうことは表現の空間として不健康なものにはなるのではないか?と思う。みんな堂々と言っちゃおう!と思っている(逆にああいうやり口でもって言いづらくしていると言われるとぐうの音も出ないが)

限界オタク性と変態性は方向こそ違えど同じ形質を持っている。どちらを後押ししてもいいんじゃないかとは思う。性的感情の発露という表現が今かき消されつつある。特に表現規制を行うべきだと主張されることが多い(非実在児童ポルノの件などは記憶に新しい)。かくいう表現が犯罪の温床だ!と主張され、世界から非難の眼を浴び続けているが、そのような結果事実は存在していない。むしろこのような表現をかき消し、窮屈な表現世界しかつくれないのであればより現実の行動に無用な縛りを受けざるを得ないだろう。諸外国を見ればそうであると思われる。オタクの言動も同様で、これに厳しい目が向けられているが、表現の規制をかければ行動が窮屈になりうることは間違いない。

そこで「RTしろと言われた気がする」が出てくる。どんどん自分の思うことを言っていこう。言えるようにしておこう。どんな表現を表出されてもそれをすべからく受け入れようと思う。そのための決意表明であり、具体的行動になる。一表現者としての覚悟であり、決意を認めておく。

あー堅苦しい話になった。でも読者諸兄には共感していただけるだろうと思う。

※いやだったら嫌って言ってね

思い出して追記:

ちょっと昔にやらかした引け目もある。「そういう(キャラクターに性的な表現をぶつける)のは作者/キャラクターにとって失礼じゃないのか?」という発言をしたこともある。それを作者でもなく表現の受けてであるという意味ではフラットな立場である自分が言うのはおかしいと今になっては思う。

あと自分も性癖暴露したい。ほんとは。将来「○○氏は過去にこのような投稿をし…」と過去を裁かれるのは困ると思っている。ただ、①そういうことで引け目を感じることをなくしたいと言ってるのではないか?②別に人様に迷惑をかけているわけではない③必ずしも過去の考えと将来のそれが一致するわけではないのに過去の言動で将来判断されること自体おかしい④SNSの性質上、(現実世界では残らないはずの)一会話が全て残るというメリットを揚げ足取っているだけ、という4点を考えればブレーキを踏む必要ないだろう

(この考え方が変わることはないと思うが、また変わればその際には何等かの形で。)