オタク考③

2024年4月26日オタク考


さて、これ以来約2年ぶりのオタク考である。

オタクの定義づけをやろうとして過去にこのような定義をしている

「社会生活に必要な程度を超えてあるコト(対象)に興味があり、具体的な行動を起こす人」と定義できそうである。

しかしこれ以来思索を巡らしていると、どうやらこの定義ではまずいのではないだろうかと思われたのである。この定義ではあまりにも広すぎるのではないだろうか、ということである。

この問題が生じるのはネットミームやらブームやらがあるときである。それらを使ったりブームに乗っかったりするところというのは、「社会生活に必要な程度」を超えて「具体的な行動」を起こしているといえる。例えば彗星のごとく現れたVTuberの語尾を真似て「~ですわ」と書き込んでみたりするのは果たしてこのVTuberのオタクと言えるのだろうかということである。

そこでオタクと呼ばれる集団の性質を考えてみると、対象への執着心を抱いていると言える。帰納的に定義をしなければならないためこの証明をするのはなかなか難しいが、この説からの定義のメリットはオタクをある程度範囲を区切って定義できることや、具体的な行動を起こさない内心のオタク性を拾い上げられることができることである。

定義を2つ並べてみよう
①必要超過説:「社会生活に必要な程度を超えてあるコト(対象)に興味があり、具体的な行動を起こす人」
②執着心説:「対象への執着心を持っている人」

どちらもメリット、批判されるところがあるといえる。①説は例えば「普段よく新幹線に乗るビジネスマンで、新幹線の時刻をほぼそのまま覚えてしまっている人」を排除できるし、②説は例えば「最近はやりのネットミームに乗じているだけの人」をオタクから排除できるということである。しかし①説ではオタクの範囲が広くなりすぎるところがあり、②説ではオタクの原義的由来に拘泥した結果広い定義をすることが出来なくなっているという批判が妥当するともいえる。

ところでオタクを定義づける意義とはなんだろうか。これはその形質を捉えやすくすること、感覚的な議論を避けることにある。しかしこれは循環論法に近く、こうだからオタク、オタクだからこうと堂々巡りを起こしてしまうと言える。そのため出来る限り形質に触れずに外形的な定義をしたいと思っている。そのために①説を取ろうとしたのだが、②説のように漠然とした「オタクの性質」を取り上げざるを得ない状態になっているのが非常に悩ましいところである。
きればライトなオタクと限界オタクの差を程度によって分けられるようなやり方を考えたいがその点では①②両説とも大して変わらない…更には類似の別単語との差異も考えないといけない。「マニア」はその例である。マニアはギリシア語由来だし、オタクは単なる二人称が原義であるからそこから攻めるのも難しくなってくる。

是非コメント欄で一緒に悩んでほしいところである。