オタク考④ 推しとは?

2024年4月26日オタク考

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前回まで、オタクの定義について思索を巡らせた。今回は別のことを考えたい。「推し」である。以下一人語りが長めに続く

私自身、オタクであることの自負はあるが、(一般的な意味での)推しはいない。(推してる会社はJR東海だがここでは関係ない)鉄オタであっても意外と別の推しを心に秘めていたりする。いろんな方からいろんな布教を受けたものの、結局触れるメディアには影響を及ぼしたが推しができたわけでもない。東海オンエアはずっと見てるがそれを推しというのか?(箱推しなのか?)もよくわからない。
心が弱っているときなどに推しが意外とできるもんだが、アイドルなり芸人の一挙一動に尊みを覚えるわけでもない。沼という表現はオタクになった経緯を踏まえればよくわかるのだが、それでも推しはできない。不思議なもんである。
しかも無機物や概念にしか興味がないというわけでもない。はて推しとはどうすればいいもんだろうか…

というあたりが推しに対する自分の悩みというか現状である。そのうえで推し概念への考察をいくつか加えたい。

推しに貢ぐという行為は愛情なのか?執着心なのか?という問題もある一方で自らの寂しさを紛らわしているだけという捉え方もできるのではないだろうか。自分が誰かに甘えたいとしてもそのリスクを恐れて推しへの感情に昇華させているだけとも言える。
なおこの問題はオタクというものを社会の現象と広くとらえ悲観的に語る場合にはよくこの筋で語られているように思われる。

他方推しという現象、文化を好意的にとらえるにはどうすればいいだろうか。経済が回ってる~というのはそれは別の捉え方なので措いておくとして、オタクの執着なり労力なりを強めより掛けさせる触媒になるだろうと言えるし、そもそも推しという概念があることによって「推しがいる」ということへ意味づけがされることにより対象(=つまりや鉄道なりアイドルなりその分野それぞれ)そのものを活性化させるものでもあるといえる。
個人にとって好意的にとらえる場合には、それはもう皆さまが実証されている通りではあるものの、人生に増す価値というのは増えると言える。

今後の課題としては「信者」「ガチ恋勢」といったものをどうとらえるか、というところになってくるだろう。今後これらについて思索を巡らせることがあると思う。