「旅情」について
独白めいたものをこのブログに書くのは1年以上やってなかった。今これを書くことに他意はないので詮索するよりも共感反感を覚えてほしい。
旅情という言葉について考えたい。旅情を誘う夕景などという言い方がある。鉄道に絡めた話をするなら、ノスタルジックな車両に旅情を感じるというのはよくある話とされている。115系やキハ40系列の国鉄型ボックスシートなどというのはその最たる例であろう。
しかしこのような車両はその老朽化により姿を消していく。これは抗えぬ運命であるが大概そのような話が流れてくるときに「新車は無機質で、旅情がなくなっていく」という意見を耳にする。果たしてそうだろうか。
旅情という言葉を砕いていえば「旅している感じ」というところに落ち着くだろう。新車であろうと平凡な車両であろうと、見るもの聞くもの一切合切すべてを身体の五感を使っていけば旅情に浸れるのではないだろうか。なんというかそのような感性を持ち合わせておきたい磨いておきたいと思う今日この頃である。
若造が何を出過ぎたことを言う、と思う先達がいるならそれは尤もなことで恥ずかしながら感性を磨き切れていないという自覚は十分ある。ノスタルジックな車両そのものが嫌いというわけではなく、自分だって関西圏を西に出て、岡山行きの国鉄型に乗ればいよいよ旅が始まるのだと気分が高揚してくる。ただそればっかりでは感性というのはどんどん貧弱になっていくのではないか、「感動」することに鈍くなっていくのではないかという危惧を感じているわけである。この話を一般化すれば「感動」についてだということで、書き連ねることとする。
ところで最近、といってもここ十数年かもしれないが「体験型観光(列車)」なるものが多いような気がする。体験型観光列車として特別な仕様な列車があり、それに乗れば沿線の住民による民俗文化を見れたり、名産品を売りに来たり、絶景なるところでは徐行したりとその沿線地域を「体験」できるというのが売りである。別にこれを利用するのが悪いとか良いとかそういうことを言いたいのではない。ただそのようなパッケージ化されたものばかりがちやほやされるほどに我々の感性は鈍くなってしまったのだろうか。そりゃ商業主義の流れからしてこのような「わかりやすい」ものをおススメしたくなるのは致し方ないものであろうけれど。
旅への憧れは失いたくない。
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